カルチャー
2016.07.09(Sat)

「酒は呑め呑め、呑むならば〜」福岡市の民謡「黒田節」のルーツとは

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「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一(ひのもといち)のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士(くろだぶし)」

 

福岡に住む方なら誰もが口ずさめるほど馴染深いこの唄ですが、恐らくこう思っている方も多いのではないでしょうか?

「知ってはいるけど、これ実際何の唄なの?」

そんな皆様に向けて、ちょっとした豆知識を以下でお伝えしていきたいと思います!

■タイトルにも歌中にも出てくる、「黒田」とは!?

「黒田」という単語から、察しのいい方なら分かるかもしれませんね。

そう、大河ドラマの主人公にもなったことがある「軍師官兵衛」こと、黒田藩藩主の”黒田官兵衛”で有名な”黒田”のことです。

黒田藩は筑前国(現在の福岡の西部あたり)のほぼ全域を統治していた大藩として名を全国に轟かせていました。

豊臣秀吉の参謀役、軍師として天下統一を支えたことでよく知られている官兵衛ですが、黒田藩が実際に藩として力を持ち初めたのは、官兵衛の息子である後継者の”長政”、そして戦乱の世を生き抜き数々の武功を挙げた”黒田二十四騎”の時代からとされています。

その証拠として、博多駅前に建つ「黒田武士銅像」や、「黒田二十四騎図」など、芸術作品として残されており、今もなお勇猛で憧れの武士として名が知られているのです。

■唄が誕生したのはなんと伏見(京都)だった!?その経緯とは!?

黒田節が誕生したのも福岡と思いきや、なんと伏見(現在の京都)が発祥の地だったのです。

伏見城下町の大名・福島正則の屋敷に、朝鮮から一旦帰国した黒田二十四騎の一人、母里太兵衛が黒田長政の名代として挨拶に行きました。

そこでは家中の者が集まって酒盛りが開かれ、大の酒好きだった母里太兵衛は先方に失礼があってはいけないからと酒を飲むなと禁酒の命を受けていました。

しかし、福島正則はある賭けを母里太兵衛に申し込みます。

「この大盃を飲み干せばどんな褒美も取らす」と。

それに挑まずにいられなかった母里太兵衛は、小田原攻めの功績として”豊臣秀吉”から賜ったという槍を頂けるならと賭けに乗り、見事飲み干しました。

正則もしぶしぶ受け入れ、太兵衛は槍を自分のものにしてしまったのです。

この名槍(めいそう)「日本号」は、「呑み取りの槍」とも称され、現在、福岡市博物館(福岡県福岡市)にて収められています。

 

 「日本一の槍を飲み干したのは母里太兵衛、ああ名槍は黒田武士のものになったかあ。ああ黒田武士。」

この唄がしだいに広まっていき、酒席の唄になっていったようです。

その後、1928年(昭和3)NHKがこの唄を放送するにあたり、「武士」を「節」ともじって『黒田節』とし、1943年赤坂小梅によってレコード化され、日本中に広まっていったのです。

これが現代でも伝わっている民謡「黒田節」の由来といわれています。

黒田武士が黒田節に…なんとも、意外な形で有名になってしまった母里太兵衛は、現在博多駅前に「黒田武士銅像」として福岡市民を見守ってくれていることでしょう。

どうでしたでしょうか?

福岡市の民謡「黒田節」がまさか京都の宴会場でできた歌だったなんて…。

他の各地方の民謡も、探してみるとおもしろいエピソードがたくさんでてきそうですよね。

みなさんもこれを期に「黒田節」を聞いてみてください!

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