西日本一の繁華街と呼ばれる「中洲(なかす)」。屋台や料亭、バー、パブなどさまざまな飲食店が軒を連ね、地元住民や観光客で連夜賑わっています。実はその歴史は長く、江戸時代までさかのぼることをご存知でしたか? 今回はそんな「中洲」の歴史に迫りたいと思います。
那珂川と博多川に囲まれた、幅200m、長さ1kmの細長いエリア。現在は約2000の店舗がひしめきあい、「西日本一の繁華街」、東京の歌舞伎町、札幌のすすきのとあわせて「日本三大繁華街」と呼ばれることも。また「博多どんたく」「博多祇園山笠」「中洲祭り」といった行事が行われるスポットとしても有名です。
中洲の誕生は慶長5年(西暦1600年)。黒田長政が福岡城築城のために町づくりをおこなった際、「福岡」と「博多」をつなぐために中洲に土砂を積んで「中嶌橋」と呼ばれる橋を架けたのが始まりだといわれています。
誕生した当時は実は菜の花畑として活用されていました。その後明治に入ってから県立病院や電灯会社、電話局といった公的機関が相次いで設置され、さらに大正に入ると電気館や世界館といった常設劇場、映画館、カフェやバーが続々登場。
大正9年には地下1階、地上5階のエレベーター付き百貨店・玉屋呉服店がオープンし、初日には4万7千人ものお客さんが殺到したといいます。また昭和9年にオープンした「ブラジレイロ」は、火野葦平、夢野久作、原田種夫が足を運んだ文学サロンとしても有名です。
1945年の福岡大空襲では、中洲全域が罹災するも、同年末には映画館が復興、劇場が復活。さらに10年後には映画館が17館も立ち並び、スナックやキャバレーも激増していったそうです。
約2000の店舗がひしめきあい、1996年には複合商業施設「キャナルシティ博多」がオープンし、1999年に閉店した福岡玉屋の後には複合商業施設「gate’s」ができるなど、現在も多くの人が行き交う歓楽街として栄える中洲。観光で訪れる人には特にラーメン、焼ラーメン、餃子などを出してくれる“屋台”を巡るのがオススメです!
江戸時代から実に長い歴史を持ち、菜の花畑から日本三大歓楽街に発展を遂げた中洲。その歴史を知ってみると、また少し印象が変わりますよね。福岡に訪れた際は、ぜひ夜は中洲で過ごしてみるのはいかがでしょうか。