カルチャー
2016.08.02(Tue)

【フクオカhumanpedia】第1回「福岡の都市整備を行ったのは豊臣秀吉だった?」

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「フクオカhumanpedia」は、古くから商都として栄えてきた福岡の街を支えた、歴史上の著名な人物や、知る人ぞ知る職人たち、現在福岡の各分野で活躍している人々を紹介する連載コラムです。

第1回にフィーチャーするのは豊臣秀吉。彼が福岡で行ったこととは!?
 

豊臣秀吉と博多

古来より交易都市として発展していた博多は、日明貿易の隆盛さで多数の豪商が住み着きました。やがて戦国時代になると大友氏、毛利氏、島津氏らの争いが勃発し、度重なる戦火によって町全体が終焉しかけていました。

しかし天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州征伐を行い島津氏が降服。初めて九州平定を成し遂げたのです。秀吉がまず九州で行ったのは、石田三成や黒田官兵衛(如水)に博多の町の復興を下命したことです。秀吉による町整備は「太閤町割り」と呼ばれ、地元商人の協働により、二回に分けて整備が行われました。

 

豊臣秀吉が行った町割りってなに?

聞き慣れない「町割り」という言葉。

これは近代より以前の日本で施行された都市整備に関わる制度で、「一定領域の土地に複数の街路や水路を区画整備した都市形態」を指します。古くは京都、平安京に見受けられます。

南北に40丈(約120m)四方に区画され、まるで碁盤上に並べられるという様相となったことや、戦国時代には各地に城下町が形成され、武家地・町人地・寺社地などに地割し、街路を通して敷地を割り当てる「屋敷割り」を行うなど、時代とともに変化しています。

博多の場合、町筋に面した家々を地区ごとに一つの町とし、向かい同士が一つの区画となる「背割り」の方式を採用しました(現代は「街区方式」が主流)。裏手にある家は別の町筋に属します。

 

町割りから生まれた「流」

太閤町割りの施行によって、博多の町は「流(ながれ)」と呼ばれる集合体を形成させていたのが特徴的です。秀吉は東西南北の町筋の数を、七条袈裟になぞり七本とし町の上位行政区画にしました。

やがて流は博多祇園山笠のグループ単位発祥にもなりました。恵比須流・大黒流・土居流・東流・西流・中洲流・千代流の七流が形成され、毎年博多祇園山笠の山笠当番を務めます。

 

博多町割りが決められた3つの理由

朝鮮出兵を計画していた豊臣秀吉にとっては、その為の備えと拠点が必要だったことは明白です。しかしなぜ博多という町が選ばれたのでしょうか?その理由は3つに大別できます。

 

1.良港だったこと

当時の異国渡航手段は船です。港湾の環境整備は重要なポイントでした。その為の長期にわたる船止め、整備や補給、一斉出陣の準備を含めトータルに考えても、穏やかで広い博多湾が最適だったのです。

 

2.博多商人の思い

戦国の世を生き抜くしたたかさは、武士だけに限らず商人たちにも顕著でした。時流に乗り商才を発揮する力こそ博多の復興に欠かせません。秀吉自身も理解していて、博多に住む商人たちを高く評価したことにあります。

 

3.難治の地を静定

京の中央集権から遠い九州は、土地の武家集団があまり言うことを聞かず反乱の起きやすい地域でした。圧力をかけるための拠点整備が必要となり、幾つかの候補を挙げつつ、最終的には船を使って大量に兵員を送り込める博多の良港を選んだといわれています。

 

このように太閤町割りによって博多は復興し、朝鮮出兵の特需で儲け潤った場所になりました。アジアへの玄関口、紐解けば約二千年の伝統を持つ博多は、「町人のまち」として現在にも通じるものがあるのです。

織田信長へ奉仕する姿勢でも有名な秀吉。どうすれば人が動くかを熟知し、天下をとるにふさわしい政治力を兼ね備えていました。現在も続く博多のにぎわいを見ると、秀吉の思いが時代を超えて伝わってくるようですね。

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