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2016.08.02(Tue)

亀山社中に学ぶ!坂本龍馬ばりの常識を飛び越えたビジネス術

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日本最初の商社、そして坂本龍馬が創始したことで有名な「亀山社中」。龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間や結社を意味する「社中」を合わせた名称です。その功績を知り、ビジネスの新しいアイデアや革新的な行動力を参考にし、あなたのビジネスも見直してみましょう。

 

坂本龍馬の思想は現代よりも進んでいた?

坂本龍馬の行動力に魅力を感じる方も多いことでしょう。しかし龍馬の真の魅力は、桁違いに大きく並はずれた発想やリスクを覚悟する雄大な心意気、何よりも全ての人々へ恩恵をもたらす方法を日夜考え抜いていたところにあります。スティーブン・R・コヴィ氏が著した「7つの習慣」という本の中に、「win-win」という言葉が登場します。

ビジネス界では既に定着し、契約を交わす両者がともに潤うことを示します。しかし実際には、企業間の大きな括り同士で成立していても、各々が抱える下請けや現場スタッフが本当に潤い、やりがいを感じているのかは未知数です。実情を見て見ぬふりな企業社会の姿を垣間見ることすらあります。汗水たらし細々と仕事をするということに美意識を持つことで、半分諦めているサラリーマンが多い現代です。龍馬の思考は既にwin-winの概念すら飛び越えて、関わる全ての人々(薩摩藩や長州藩に限らず、日本国中の人々)が幸せを実感できる「Total Win」な関係性を求めていました。

 

亀山社中は、日本の総合商社のはしり

龍馬が設立した「亀山社中」は、日本で初めて営利目的を持った近代的組織。今でいう株式会社や商社の原型です。雄大で自由な発想、幅広い人脈、情報をビジネスに変換することを誰よりもいち早く行った、フロンティア精神を持った集団だったのです。

「亀山社中」が行ったビジネスのひとつとして、薩摩藩をバックにしてグラバー商会などと取引したことがあげられます。薩摩藩名義で購入した武器・弾薬・艦船を長州藩へ売り渡す窓口になり、元々仲の悪かった双方を交流させつつ、来るべき新しい日本の為に必要だった「軍隊」を作る為の基盤作りに奔走したのです。

 

亀山社中は、グローバリズムに沿った社風

坂本龍馬の肖像といえば、羽織袴にブーツを履き、しかも手には拳銃をしのばせるという独特なスタイル。まだ刀を振り回していた武士たちの間では、龍馬の格好を変わり者としか思わなかったはずです。しかし海を渡った西洋では、靴を履くことは当然の風習、外国商人の間では当時フォーマルなスタイルだったそうですから、龍馬は一歩進んだ感覚だったといえるでしょう。

亀山社中そのものもやがて「海援隊」へと姿を変えていきます。土佐藩の後藤象二郎によって亀山社中と土佐商会の合併話が持ち上がり誕生しました。筆頭株主も薩摩藩から土佐藩に変更、いわばこの動きは、現代のM&A(merger and acquisition)、企業合併や吸収を初めて行った組織でもありました。

 

亀山社中は、常に自己投資をするスタッフばかり

亀山社中の社風はとても自由だったといわれ、シンプルな生き方を提唱していたようです。行きつけの料亭があり、いつもメンバー間で騒いでいたという史実もあります。

また「写真」に興味がある者が多く、彼らを被写体にしたものが現在までに7枚残っています。これは徳川幕府将軍と同じ枚数。当時は写真撮影自体が珍しいことだったので、最先端への興味を持ち得ていた人物達が集まっていました。遊ぶことも仕事も同じくらい重要で、どちらも手抜きをしないというのが彼らの流儀だったようです。

亀山社中の陸奥宗光は語学に精通し、自ら外国人宿舎での生活を志願。やがて伊藤内閣にて外務大臣へ就任、不平等条約改正に辣腕を振るいました。岩崎弥太郎(実際は海援隊~土佐商会のメンバーとして)は現在の三菱グループや日本郵船の基盤を作るなど、龍馬以外に亀山社中関係の出身者は、その後幕末から明治維新以降に活躍することとなるのです。

 

現代でも特集が組まれたり、ドラマ化されたりと人気が衰えない坂本龍馬。彼の思想や、亀山社中の社風は、現代社会においても指標なるような普遍性がありますね。日々の生活や仕事に行き詰まりを感じたときには、坂本龍馬に関する資料や小説などを読み返して、気持ちをリセットしてみてください。

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