カルチャー
2016.09.15(Thu)

【フクオカhumanpedia】第3回「幕末の男装女医、高場乱(たかばおさむ)という生き方」

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「フクオカhumanpedia」は、古くから商都として栄えてきた福岡の街を支えた、歴史上の著名な人物や、知る人ぞ知る職人たち、現在福岡の各分野で活躍している人々を紹介する連載コラムです。

第3回にフィーチャーするのは、福岡の伝説的な女医「高場乱(たかばおさむ)」。男性のような名前を授かり、人生そのものが男勝りだったといいます。男尊女卑が当たり前な幕末の世に晒されつつも、異例だったその生涯を追ってみましょう。

 

幼少期から既に異例な扱い……

高場乱は、1831年に江戸時代初期より継承されていた福岡藩医の家系にて、眼科医の末娘として誕生しました。
その環境から医者を目指すこと志します。幼少時代から英才だった人で、男の子がいなかった高場家では、由緒正しい高場流眼科を後続させる手段として、乱(おさむ)という男性名を命名し漢学を学ばせたそうです。

9才の時、藩に名字帯刀を申請し10歳になる頃、福岡藩から正式に元服(男性として)を受理されます。これは極めて異例なことでした。

 

珍しさは、そのネーミングにも……

ところで、この「乱」というネーミングはどんな発想からなのでしょうか?
実はこれこそ当て字、最近のキラキラネームのような感覚なのです。もともと中国の兵法や易経に登場する「乱を治む」という言葉より引用したものだと言われています。高場家には男の子がいなかったことから、乱には相当な期待が込められていたのだと思われます。

 

男装帯刀の女性儒学者として生きる

乱は女性として生まれつつも、教育やしつけ等の生活様式そのものは、完全に男として育てられ、そのことに当人も違和感を持たなかったようです。16歳で一度夫を得ていますが、これを不服として自ら離縁しています。そして20歳の時に儒学者の亀井昭陽が主宰する「亀井塾」へ入ります。亀井塾は身分性別を問わない学風だったこともあり、女性の弟子も多かったそうです。乱はここで大いに学び、その影響は計り知れないものでした。

 

女傑と言われたことも!

亀井塾での学問を修めた乱は、明治6年に私塾「興志塾」を開設します。その塾が薬用人参畑跡地(現在博多駅の近く)にあったことから「人参畑塾」と称されていました。
弟子の中には乱暴者も多く、そのような人物が入塾することすら拒まない懐の広さがあったようです。
周囲より「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」になぞられ、奇才も豪傑も集まる場所という評判だったとか。武道にも長けた本人は生来虚弱で華奢であったと伝えられています。

 

福岡の変

西郷隆盛が起こした西南戦争の煽りを受けて勃発したのが「福岡の変」です。
明治政府への反乱の波は子弟たちへも及び、幾人かが加担しました。自身はひたすら行く末を見守る中、弟子たちが命を失っていきました。特に来島恒喜が大隈重信を襲撃したのち自殺したことに衝撃を受けます。
また当人にも関与の疑いがかけられ拘束、苛烈な取調べに対して「知らぬこと」と意思を通します。
弟子たちの覚悟を受け入れ、最後まで何も口出しはしなかったそうです。

 

高場乱が残したものとは?

乱本人は目立った行動や文献を著したわけではなく、地元に根付いた医療活動や塾教育をひたむきに行った人です。
しかし彼女の教えは、弟子の頭山満や来島恒喜、そして玄洋社の主要なメンバーだった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎、奈良原至らを輩出、彼らに儒学から自由民権まで叩きこんだのです。
西洋からの独立、アジア主義の主幹だった玄洋社の本当の生みの親は、高場乱かもしれません。

 

高場乱から影響を受けた者は、300名を超えると言われています。
勤皇派・佐幕派に別れ歴史的事件も多く起きた福岡藩の中で、重要人物たちを啓蒙した隠れた女傑は、いずれ大河ドラマ等の主役になる日も近いことでしょう。

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